平和の為に今できること「ピースアクションin広島」(2016.8.4〜6)、「ピースアクションin長崎」(2016.8.7〜9)を開催823日)
慰霊碑前にて(ピースアクションin広島)
 フード連合では、平和運動推進に向けた行動「ピースアクションin広島」、「ピースアクションin長崎」を毎年開催しています。

 今年の「ピースアクションin広島」は、全国から89名(事務局含む)が参加しました。8月4日は、@ビデオ学習「被爆の爪跡」、A小学校3年生(8歳)の時、爆心地から2.8q離れた自宅で、2人の弟と飛行機の爆音を聞いて手を振っていた時に被爆した岡田恵美子さんからの原爆被害の実相証言、B朗読ボランティアによる「被爆体験記・原爆詩の朗読」を、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館・研修室で行いました。
被爆体験を語る岡田美恵子さん(広島)

 翌5日は、ヒロシマピースボランティアの楢原泰一さん、福島正昭さん、小野久仁子さんの説明で、ピースウォーク「平和記念資料館、平和記念公園めぐり」、午後は「被爆建物めぐり」を行いました。
 平和記念公園では、地下室が被爆当時のまま保存されている大正屋呉服店(太平洋戦争開始後、燃料配給統制により燃料会館として使用。現在はレストハウス。)にヘルメットをかぶって入り、71年前の追体験をしました。

ヒロシマピースボランティア・楢原さんの説明を受け、被爆建物めぐりを行う(広島)

 その後、連合主催「連合2016平和ヒロシマ集会」に参加し、翌6日は広島市主催「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に参加して、恒久平和を祈念しました。

〜参加者の感想〜

ピースアクションin広島に参加して
日本アクセス労働組合  岡田 千鶴

 皆さんは「広島平和記念公園」をご存知ですか?
恐らく世界の多くの方々がご存知かと。
でも、昔から公園だったと思っている方もいらっしゃるのでは?
この「中島地区」は、江戸時代から栄え、広島の物流拠点として、政治・行政・商業の中心となる、とても賑わう町でした。
1945年8月6日 8時15分 原子爆弾が投下されるまでは……。
 たった1発の原爆で、35万人の市民は、14万人亡くなったと言われていますが、原爆は、建物や人の命だけなく、名前、存在、文化も消し去りました。
それなのに、核は1発も無くならず、いまだに世界で15850発も存在します。
 爆風で、体中にガラスがささり、4000度の熱で、皮膚は溶け、放射線は、71年経った今でも、後遺症で苦しめ続ける。
原爆の恐ろしさを、理解して欲しい。
 広島県呉市で育った私は、子供の頃から、平和学習も身近でした。
勉強しても、苦しみ全てが分かるわけがありませんが、学ばないと何も知らないままです。何があったのか理解し、自分にできることは何か。
「ただいま。お帰り。」と挨拶できること。学校に行けること。家族とご飯を食べられること。その当たり前と思うことが、どんなに幸せなことか。
せめて、8月6日は黙祷を。そして、平和とは何か。家族と共に考えてみて欲しいです。
 広島には75年間、草木も生えないだろうと言われていましたが、71年後の今、広島にはキレイな草花が広がる素敵な街になりました。
復興のために携わった方々の努力と愛に、感謝の気持ちでいっぱいです。
 広島の地でしか伝えられないこと。感じられないこともあります。
被爆者も高齢となり、生の声を聞ける時間も、もう残り少ないです。
ピースアクションの取組で、一人でも多くの方に知って頂けることを願います。

●ピースアクションin長崎(2016.8.7〜9)

 「ピースアクションin長崎」は、全国から75名(事務局含む)が参加しました。

原爆資料館入口にて(ピースアクションin長崎)
 8月7日は、@国民学校3年生(9歳)の時に自宅玄関先で被爆した羽田麗子さんから当時の世相と原爆被害の実相証言、A被爆直後の実写フィルム「ナガサキの少年少女たち」によるビデオ学習をセントヒル長崎・会議室で行い、翌8日は、平和ガイドの解説で、ピースウォーク「被爆建造物・慰霊碑めぐり」を行いました。

 被爆体験を語る羽田麗子さん(長崎) 平和ガイドの解説を聞きながら、被爆建造物・慰霊碑
を巡る(長崎)

 その後、連合主催「連合2016平和ナガサキ集会」に参加し、翌9日は長崎市主催「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参加し、恒久平和を祈念しました。
 「平和なくして組合活動なし」――この「思い」を胸に、私たち自身の手で平和を守り、再び戦争の惨禍が起こることのないように決意を新たにしなければなりません。

〜参加者の感想〜

「ピースアクションin長崎に参加して」
ニチレイ労働組合 長崎支局 戸川 真優美

 前年に引き続き、今回で2回目の参加となりました。
今回も、1日目の平和学習会、2日目のピースウォークと参加させていただきました。
私は子供のころから長崎県内在住で、小中学校では繰り返し平和学習を受けていましたが、大人になると直接見聞きする機会も減り、ただ漠然と「戦争は恐ろしい」「平和を大切に」と思うだけになっていました。
 1日目、語り部・羽田さんのお話は当時の食料事情や学校の状況、日々厳しくなっていく戦争状況の中、訓練が増えていき、学ぶことさえままならぬ状況、そしてあの日投下された原爆の悲惨さについて語られました。
 空襲の際の警報には、「警戒警報」・「空襲警報」・「敵機来襲」の種類があり
防空壕に間に合わなければ地面に伏せ、手で目と耳を押さえる。…その理由が 爆風で目が飛び出さないように、爆撃の音で鼓膜が破れないようにするため、と説明があったときには、日常をそんな状況の中で生きていく怖さと悲しさを感じました。
 『平和は寄っては来ない、活動することで平和はできる。』
語り部もそのひとつ、と話されていた羽田さんの言葉が心に残ります。
集団は個々の意思とは違う方向へ流れることがあります。
当時も殺し合いを望む人ばかりではなかった筈なのに戦争は始まりました。
そうなる前に自分自身がきちんと見て聞いて、自分自身で判断し、自分自身の声をしっかりあげていかなければならないのだと強く感じました。
 最後に3つの約束事として話された
「命は粗末にしないで。自分の、人の命を守れる人になって」
「差別をしないで」
「必ず話し合いでの解決を。時間がかかってもいい。」
当たり前のようによく聞く言葉ですが、このうちのひとつでも軽んじてしまうと恐ろしい争いにつながるとても深く、重い意味のある言葉であることを感じました。
この3つの言葉を、しっかりと周りの人たちにも伝えていきたいと思います。
 今回も貴重な体験をさせていただき、関係者の皆様には大変感謝いたします。
この場をお借りしてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。