第36回5.15平和行動に参加しました67日)
第36回5.15平和行動に参加し、雨の中、沖縄県内を行進して平和を願いました。
 沖縄は日本で唯一地上戦があった地です。
 1945年6月23日沖縄戦は終結し、1952年4月28日サンフランシスコ平和条約が発効されましたが、沖縄は引き続き米軍支配下におかれました。
 1972年5月15日、沖縄は日本に復帰しました。しかし、県民の願いは叶わず、復帰41年の今も広大な基地はそのまま残り、在日米軍専用基地の74.5%が沖縄に集中し、基地から発生する事件や事故はあとを絶たず、日常的に沖縄県民は危険にさらされています。
 5.15平和行動とは、基地の無い沖縄本土復帰平和な暮らしを求めて、沖縄県内を行進して平和を願う運動です。
 今年の平和行進は11日に宮古コース、15日に八重山コースが行われ、17日に始まった沖縄本島3コースは、「東」「西」「南」19日に最終日を迎えました。
 「基地も核も戦争もない21世紀の世界を実現しよう」をメインテーマにそれぞれが色々な思いを持って全国各地から5,000人が参加して行われました。
 今年も、フード連合からは、中四国・九州ブロック、飲料ビール部会、全たばこ労組、全沖縄製糖をはじめ沖縄地区協の仲間、のべ154名(5月17日から19日の3日間)が参加して沖縄の地を行進しました。
 中四国・九州ブロックは例年通り、平和学習会(ビデオ学習・沖縄地区協より平和の取り組み報告)、平和行進、南部戦跡廻りをして平和学習を行いました。
 私たちフード連合の仲間は南コース嘉数高台をスタートし宜野湾海浜公園屋外劇場までの5.8qを行進しました。大雨に降られながらも米軍普天間基地の閉鎖・返還、オスプレイの配備撤回そして、「基地のない沖縄」「原発のない日本」を求めるシュプレヒコールを上げ「平和な社会の実現を求め」フード連合の仲間は3日間延べ154名が参加し「5.15平和とくらしを守る県民大会」会場まで力強く行進しました。

 最後に参加者からの感想を紹介します。

今年も、フード連合からは、中四国・九州ブロック、飲料ビール部会、全たばこ労組、全沖縄製糖をはじめ沖縄地区協の仲間が参加して沖縄の地を行進しました。
参加者の感想@
 今年第36回5.15平和行進が5月17日から19日の3日間沖縄本島を南・西・東コースに分かれ、基地のない沖縄を目指し、シュプレヒコールをあげながら行進をし、我々全糖労は南コースに参加しました。
 1日目は雨、2日目は曇り・晴れ、3日目は雨が降ったり止んだりと体調管理が難しい天気でしたが、約45qの道のりを、復帰41年経っても変わらない現状を訴えながら行進し、最終日に開催される「5.15平和とくらしを守る県民大会」に参加しました。
 その後本土から参加されたフード連合、中四国・九州ブロックの方々と交流会を行い、広島から参加された方が「今まで、先の大戦で広島が一番ひどい事をされたと思っていたが、沖縄の地上戦がこんなにも悲惨だったとは知らなかった。今回の行進に参加してそれがわかった。帰ったら周囲の人たちにも伝えたい。」と言ってくれたのが印象的でした。
 これからも、地元沖縄の為、反戦活動をし、早く平和な沖縄が来ることを願います。
(全沖縄製糖労働組合北糖支部 比嘉伸吾さん)


参加者の感想A
 今回、初めて5.15沖縄平和行動に参加させて頂き、戦争の悲惨さや依然として残されている沖縄の問題を自分の目で見て学ぶことが出来ました。
 初日の学習会では1フィート運動のフィルムを元にしたビデオから、当時の戦火が飛び交う様子が鮮明な映像で伝わってきました。この映像をまとめる為に、各地で上映会を開き沖縄戦の実相を広めると同時に寄付金によってフィルムを買い集めて繋げたそうです。次の世代へと過去を伝える貴重な財産を私達に残してくださり、有り難く思いました。
 2日目は5・15平和行進に参加し、5.8kmの道のりを歩きました。沖縄は1972年5月15日に本土へ復帰するまで27年もの間米軍の支配下におかれ、通貨の単位も異なる外国となっていました。復帰後41年経った今でも至る所に米軍基地が残っており、国内の基地の75%が沖縄に集中していると聞き驚きました。平和行進スタート地点の嘉数高台から見えたオスプレイや途中で見かけた普天間基地は確かにそこに存在していて、人々に不安や恐怖を与えているのだと実感しました。また、平和行進に対して手を振って声援を送る方がいらっしゃったのも印象的でした。各地から集まった人々が沖縄の平和を願って行進することで、安心して暮らせる場所を取り戻したいという強いメッセージが全国に届けばと思います。
 最終日は南部戦跡を巡り、南風原では当時使用されていた壕に実際に入って説明を聞きました。戦時中、男性はほとんど軍隊に召集され、女子学生も狭く暗い壕で看護の補助を行っていたそうです。 満足に食事も出来ず、怯えながら生活をするのは想像以上に辛かったのではないかと思います。そして最後に訪れた平和祈念資料館では、沖縄戦の始まりから復興までの歴史が紹介されていました。沖縄戦は一般住民の戦死者が多く、平和祈念公園には亡くなった人々の名前が刻んであります。石碑にある数え切れないほどの名前を見て、多くの犠牲を生み出す悲劇は二度と繰り返してはならないと改めて感じました。
 3日間を通してテレビや新聞などの情報媒体では分からない、現地の方の生の声を聞く事が出来て非常に良い経験になりました。過去に起きた事実を知るだけでなく、現在に残された課題やその原因についても私達は考えていかなければならないと思いました。今回の平和行動に参加することで、沖縄の過去から未来に繋がる問題をぜひたくさんの人々に知って頂きたいと感じました。今後参加される方はその土地を訪れて実際に目で見て、現地の人の言葉を聞いて、そして平和について今一度考えてみる機会になると思います。 最後になりますが、このような貴重な機会を与えて下さったフード連合の皆様に感謝いたします。参加された沖縄・中国・九州地区の方々ともお互いに情報共有が出来て良かったです。ありがとうございました。
(四国シキシマパン労働組合 長谷川 萌さん)

参加者の感想B
 5・15沖縄平和行動へ参加する機会を頂き誠にありがとうございます。広島地区協からは毎年2名が参加をしています。平和都市ヒロシマから沖縄平和行動へ参加する意義は、同じ戦争の悲劇を後世に残さないという決意に他なりません。今回は単組の執行委員を連れてゆくことができました。平和の尊さを後輩たちにも組合活動を通じて、引き継がれ、学んでいってほしいと考えています。
 1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島に襲ってきました。アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘であり、唯一の県民を総動員した地上戦でもありました。沖縄戦の特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることを知りました。その数は10数万におよび、ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。
 南風原壕群を見学した際、たまたま来ていた地元の高校の先生とお話しする機会がありました。先生は南風原文化センターの周りを歩いただけで手にいっぱいの医薬品を拾い戻ってきていました。その医薬品は、当時、医療用で使用されたものなのか、陸軍病院に撤退命令が出された際に、重症患者に配られた青酸カリなのかわかりませんが当時の戦跡を体験することとなりました。
 この戦争の不条理と残酷さを身をもって体験したオキナワとヒロシマから、平和の尊さを後世に発信してゆくことが我々の義務だと思います。平和でなければ働けない・平和でなければ安心して暮らすことができない、という考え方が労働運動の根幹であることを組合員に引き継ぎ、学んでいってほしいと思います。
 私の祖母は広島に落とされた原子爆弾によって被爆しました。祖母も体調不良でその体験を語ることはもうできませんが、世界中の人々に私たちのこころを訴え、恒久平和を樹立するためにこの運動を続けて行かなければなりません。
 渡辺局長、沖縄地区協の方々、全国から集まったフード連合の仲間には大変お世話になりました。この貴重な体験を後輩たちに引き継いでゆきます。ありがとうございました。
(広島食協労働組合 田中 教)