被爆者の平均年齢は78歳を超えました。 これから伝えていくのは若い人のつとめです94日)
― ピースアクションin広島 2012年8月4〜6日 ―
― ピースアクションin長崎 2012年8月7〜9日 ―


原爆ドーム(広島県産業推奨館)【広島】
 一発の原子爆弾による熱線と爆風と放射線により、広島14万人余、長崎7万人余の方が亡くなりました。原爆による被害の特質は、大量破壊と大量殺戮が瞬時に無差別に引き起こされることです。たくさんの犠牲のうえに今の平和があります。
 ― 広島 ウラン型原子爆弾 1945年8月6日午前8時15分
 ― 長崎 プルトニウム型原子爆弾 1945年8月9日午前11時2分

 
被爆体験を語る岡田恵美子さん【広島】
 
岡田さんの話を描写した絵画。猛火の街を逃げ惑う人々【広島】
朗読ボランティアの方たちと原爆詩の朗読をする【広島】
原爆投下前の中島地区はにぎやかな街だった【広島】
島病院の600m上空で原爆が炸裂【広島】
被爆建物のレストハウス(大正屋呉服店)の地下室で解説するピースボランティア福島さん【広島】
原爆の子の像の前で解説するピースボランティア青山さん【広島】
 フード連合では、平和運動推進に向けた行動「ピースアクションin広島」、「ピースアクションin長崎」を毎年開催しています。
 「ピースアクションin広島」では、今年は全国から87名が参加。8月4日は、@ビデオ学習「被爆の爪跡」、A小学校3年生(8歳)の時、爆心地から2.8q離れた自宅で、2人の弟と飛行機の爆音を聞いて手を振っていた時に被爆した岡田恵美子さんからの原爆被害の実相証言、B朗読ボランティアによる「被爆体験記・原爆詩の朗読」を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館・研修室で行いました。
 岡田さんは「子どもは地球の宝。子どもが被害に遭うのは広島の孤児だけで充分。どうしたら核を無くすことができるのかを皆で考えて、知恵を出し合って未来を創っていってほしい。」と語られました。
 その後、連合・原水禁・核禁会議 共同主催による「核兵器廃絶2012平和ヒロシマ大会」に参加し、被爆建物である「広島アンデルセン(旧帝国銀行広島支店)」で平和を考える交流会を行いました。
 翌日8月5日は、ヒロシマピースボランティアの楢原泰一さん、福島正昭さん、青山浩志さんの説明で、ピースウォーク「平和記念資料館、平和記念公園めぐり」、午後は希望者のみ「被爆建物めぐり」を行いました。平和記念公園では、地下室が被爆当時のまま保存されている大正屋呉服店(太平洋戦争開始後、燃料配給統制により燃料会館として使用、現在はレストハウス)にヘルメットをかぶって入り、67年前の追体験をしました。

爆心地から600mの旧長崎醫科大学正門前【長崎】
被爆体験を語る羽田麗子さん【長崎】
奇跡的に立ちつづけている一本柱鳥居【長崎】
 「ピースアクションin長崎」では、全国から56名が参加。8月7日は、@国民学校3年生9歳の時に自宅玄関先で被爆した羽田麗子さんから当時の世相と原爆被害の実相証言、A被爆直後の実写フィルム「ナガサキの少年少女たち」によるビデオ学習、B広島と同じく3団体共同主催の「核兵器廃絶2012平和ナガサキ大会」に参加しました。翌日8月8日は、前日に引き続き、羽田さんの解説で被爆建造物・慰霊碑めぐりピースウォークを行いました。
 羽田さんは小学生への体験講話時にいつも3つのことを語るそうです。「たった一つしかない命。かけがえのない命を大切にしてね。自分の命と同じように友達の命も大切にしてね。」「差別をしないでね。命の重さは誰もが同じ。」「なにか問題が起きたら話し合って決めてね。」そして「核は平和利用をひとつ間違えると原爆になる。脱原発の声をあげ、平和を大切に思ってほしい。」と話されました。
 今年、被爆者の平均年齢は78歳を超えました。悲しいことに、残念なことに、被爆者の話を直接聞くことのできなくなる日がいずれ近い将来訪れます。被爆者のメッセージを受取った方は、地域で職場で平和への思いを拡げてください。

「核の使用目的を一つ誤るだけで人は何十万、何百万と一瞬で死に至る。
福島に住む者として、核の平和的かつ安全に利用できる世の中を切に願う」

全日本たばこ産業労働組合 宮 大史

動員学徒慰霊塔には学徒動員作業中に亡くなった全国の学校名が刻まれている(左が宮さん)【広島】
原爆の熱線を受けた被爆地蔵尊【広島】
被爆アオギりのたくましく生きる姿は、原爆で絶望の中にいた人々に大きな力と生きる希望を与えた【広島】
御幸橋で解説をするピースボランティア楢原さん。説明板には被爆3時間後の逃げ惑う人々が刻まれている【広島】
 2012年8月4日〜6日に広島県にてピースアクションに参加してきました。
 広島に落ちた一つの原爆。その原爆によってもたらされた傷は何十年経っても消えることない。たとえ、建物は作り変えられたとしても、広島の方々が受けた心の傷は一生、さらにはその子供、孫へと世代を跨ぐ、そのことを強く感じたピースアクションでした。
 また、核というものはヒトにとって非常に有用であっても、末恐ろしいものである。普段使う電気などの発電するインフラには、震災以降、世の中が大注目したが、核の利用がなされている。今回のピースアクションで「福島県に住んでいる私と、その当時、核の被害に遭われた方々のリンクできる部分はどんなところか」ということを見つけたかったが、そんな福島に住んでいることに対し、大きな被害者面をした自分が本当に情けない。広島では、核は「殺す」ために利用されたのだ。しかし、福島の核は、前提として「平和」利用である(震災により、非難区域や自主避難により故郷を失った方はいるが)。私は原発擁護信者では全くないが、ここで後世に伝えていきたいことは、核は使用目的を一つ誤るだけで、人は何十万、何百万と一瞬で死に至る。核の平和的かつ安全に利用できる世の中を切に願う。そう強く思えた時間でした。
 最後に、猛暑の中、被爆した建物や街並み、実体験を丁寧にわかり易くご説明くださった語り手の皆様、ボランティアの皆様、この場を借りて、御礼申し上げます。ありがとうございました。

「平和の大切さと平凡な日々がいかに幸せなのかを感じとってほしい」

敷島製パン労働組合 中島朝美

原爆投下中心地で、仲間たちの折った折り鶴を献納した敷島製パン労組の参加者(右が中島さん)」【長崎】
日中友好を願い中華人民共和国から寄贈された「乙女の像」の前で解説する羽田さん【長崎】
 昨年の「ピースアクションin広島」に引き続き、今年は「ピースアクションin長崎」に参加させて頂きました。
 67年前にこの地に原爆が落とされたとは思えない程、訪れた長崎の街は静かでした。
 「怒りの広島、祈りの長崎」という言葉があるそうですが、双方の街を訪れてみて、言い得て妙だと思いました。
 昨年、広島を訪れた時、平和記念式典の2日前なのに平和記念公園の周辺では、原水禁などの団体が多数デモ行進を行い、高校生達が原水禁の街頭署名活動を行っていました。
 今回、長崎を訪れた時、この差は何だろうと感じましたが、語り部の羽田麗子先生から、この言葉を聞き、納得しました。
 学習会で語り部をして下さった羽田先生が、翌日のピースウォーク(被爆建造物、慰霊碑めぐり)の案内をして下さいました。羽田先生は76歳とご高齢にも関わらず、ご健脚でした。
 最初に広島に原爆が落とされ、人口も広島の方が多い為、犠牲者も広島の方が多く、この長崎に来るまでは広島の原爆の方が長崎より威力が大きいと思っていましたが、今回初めて、長崎に落とされた方が広島より威力が大きいことを知りました。また、広島はウラン型、長崎はプルトニウム型原爆だった事も、改めて認識しました。
 67年前、長崎市浦上上空500メートルで炸裂した火球は直径280メートル、表面温度は太陽と同じ位の5,000℃程、爆風は中心地で440メートル、台風の暴風は40メートル位で約10倍の強さで想像を絶することです。

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平和祈念像のある平和公園には、長崎刑務所の外壁の残骸が残されている【長崎】

 一瞬にして、熱線、爆風で罪のない人々が残酷に殺され、放射能によって苦しみながら次々と息絶えていきました。生き残った人々は差別され、今もなお、ガンや白血病の恐怖、子や孫への影響を心配し続けています。
 最近の新聞で、今の若い世代で、原爆を落とされた場所を正確に答えられない人が、1割いるとありました。数年前までは100%の正解率であったそうです。
 日本は唯一の被爆国です。昨年の福島第一原発の問題も含め、原子力の恐怖、目に見えない放射能の恐怖を今一度考え、平和の大切さと平凡な日々がいかに幸せなのかを感じとってほしいと思います。
 最後にピースアクションに参加する機会を与えて頂き、ありがとうございました。又、2年続けてピースアクションに送り出してくれた職場、家族にも感謝致します。

「何年か経って、この時を過ごした人々がいなくなっても、長崎・広島でおきたこの悲劇は多くの人に知ってもらい、伝え残さないといけないことだと痛感しました」

ジャパンファーム労働組合 鹿島大輔

山里小学校防空壕前で説明を聞く鹿島さん【長崎】
爆心地から700mの山里小学校【長崎】
山里小学校防空壕前で解説する羽田さん【長崎】
長崎原爆資料館で戦争の恐ろしさを視る【長崎】
黒焦げとなった少年【長崎】
左が長崎に落とされた原子爆弾「ファットマン」【長崎】
爆風に傾いた旧長崎醫科大学正門門柱【長崎】
平和を考える学習会会場のセントヒル長崎【長崎】
 今回私は8月7〜8日にかけて長崎市内で行われた平和運動に参加して多くの事を学びその日その時に起きた悲劇を痛感し、知る事が出来ました。今まで新聞やテレビでしか現状を知り得る事が出来なかったのでこのような機会を与えてもらい本当に良かったと感じています。
 1日目「平和を考える学習会」と題して、実際に原爆投下があった1945年、8月9日11時02分に長崎におり、被爆体験者の講師 羽田麗子さん(76歳)の実体験を聞き、その時の様子を収めた写真等も見せていただき、悲惨な現状、様子を感じる事が出来ました。
 羽田麗子さんは1936年生まれ当時8歳、爆心地から2.6キロの地点で被爆したそうです。講義の内容は、当時の長崎の生活環境や歴史、そして原爆が投下されたその日の出来事、今に至るまで詳しく、丁寧かつわかりやすく教えていただきました。
 長崎に原爆が投下されるまでの経過として、その日南太平洋のテニアン島にあるアメリカ軍基地より飛び立ったB29戦闘機は、プルトニウム型原爆『ファットマン』を積み、長崎上空にやってきました。初め長崎は標的ではなく、第一目標となっていた小倉に投下する予定だったそうですが、天候不良で目標地点の確認ができず、第二目標の長崎中心地(当時)も目標地点が確認できず長崎北部の松山町に投下されたそうです。
 私が特に心に残り、悲惨に感じたことは、原爆による人的被害、熱線による被害、爆風による被害でした。当時の長崎市の人口は、およそ24万人でしたが、原子爆弾による被害は死者73884人、負傷者74909人、被災戸数18409戸にも及んだそうです。熱線、爆風による被害も想像を絶するもので原爆から放出された大量の熱線は爆発から3秒ほどの短い時間に、異常な高熱で地上を包み、地表面の温度は爆心地で3000度から4000度、1キロ離れた所で1800度、1.5キロ付近で600度以上に達したものと推測されます。熱線、爆風による被害も凄まじく爆心地から1キロ以内ではあまりの高熱に一瞬で身体が炭化し、見るに見きれない悲惨な光景となってしまっていたそうです。建物も原型をとどめないまでに破壊され、鉄筋コンクリートの建物も所々しか残らず、いずれも無残な姿でした。2キロ以上離れた所でも爆風の威力はすごく、防空壕の中の壁に叩きつけられ即死してしまった子供もいたそうです。
 この原爆投下で放射線による被害者も多く出ており、放射線は人体を刺し貫き、色々な細胞を破壊し、損傷の程度は被爆した量によって異なりますが、爆心地から1キロ以内で被爆した人のうち、無傷であってもその大多数の人が亡くなっています。放射能の破壊力はそれほど強烈で、放射能は人体の奥深くを傷つけ、時が経つにつれて様々な症状を呼び起こし、いまだに多くの方々が苦しんでいるのが現状です。
 他にも多くの事を話して頂き、この原爆投下によって変わり果ててしまった長崎の様子を知ることができました。
 これから何年か経って、この時を過ごした人々がいなくなっても長崎・広島でおきたこの悲劇は多くの人に知ってもらい伝え残さないといけないことだと痛感しました。羽田麗子さんの話を聞き、私が特に感じた、「熱線、爆風、放射線の影響」で多くの人的被害に繋がった、という事を知って頂きたいです。
 現在も羽田麗子さんは長崎の証言の会に入会し、核廃絶に向けて原爆遺構めぐりの案内や講話を行い活動されているそうです。
 そして私たちは長崎市内にある総合体育館に移動し、「核兵器廃滅2012平和ナガサキ大会」に参加しました。この日は他県から多くの組合団体、連合団体、その他多くの人が集まり、約4000人の集いの中、「この世から核兵器をなくそう!」をなげかける集会が行われました。長崎市民の思いを強く感じました。我々のフード連合からは、全国各地からの50人の仲間と共に参加し学習しました。また、その日の夜には、フード連合の仲間と多くの事について語り、交流を深め、フード連合間の接点である「食」に関するたくさんの会話ができてとても良かったと思いました。
 翌日私たちは「ピースウォーク」に参加し、羽田麗子さんの案内で巡る被爆建造物・慰霊碑見学を半日間ではありましたが行いました。実際に自分の目で確認する事で、凄さ、その時の大変さを感じました。
 もっと多くの人にこの長崎の事を知ってもらい、またこの地を訪れ感じてほしいことを強く思いました。自分は縁あって昨年「沖縄5.15平和行動」に参加し、今回長崎に参加し、是非広島の運動にも参加したいと思いました。

 
核の地球儀。地球上には、今なお2万発以上の核兵器がある【広島】
 
連合・原水禁・核禁会議「核兵器廃絶2012平和ヒロシマ大会」に参加【広島】
慰霊碑にはたくさんの折り鶴と花が献納されていた【長崎】