"沖縄戦"を知ってください!"沖縄問題"を知ってください!
 ― ピースアクションin沖縄 2011.6.21〜23 ― 71日)
平和祈念資料館前の平和の火

 沖縄は、日本で唯一住民を巻き込んだ地上戦があった地です。
 地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われ"鉄の暴風"といわれるほどの戦闘は、日本の敗戦が色濃くなった1945年3月から3ヵ月以上もつづき、24万人余の人命が失われました。
 戦陣訓による「集団自決」、日本軍による住民の避難壕からの食料強奪と追い出し、沖縄住民をスパイ嫌疑した虐殺、風土病マラリア有症地帯への強制疎開、学童疎開船対馬丸の撃沈…、沖縄戦は正規軍人より一般住民犠牲者数がはるかに多い、沖縄県民4人に1人の生命が奪われた"いくつもの地獄をぶちまけたような"戦場でした。

平和の礎の前で説明を聞く

 2011年6月23日、沖縄は66回目の「慰霊の日」をむかえました。
 しかし、66年経った今でも、日本の総面積の僅か0.6%にすぎない沖縄に在日米軍基地の75%が押付けられ、大きな苦しみを強いられています。基地の隣の小学校・中学校の子どもたちは大きな轟音と危険の中で勉強をしています。

沖縄は"太平洋の要石"。要石とは…。講師のダグラス・ラミスさん

 フード連合では、平和を考えるための行動「ピースアクションin沖縄」を毎年開催しています。
 今年は全国から52名が参加し、沖縄在住の政治学者ダグラス・ラミスさんによる講話聴講、沖縄戦の実相を伝えるビデオ学習、そして激戦地であった南部を平和ガイドの新垣文代さんの案内で廻りました。南部戦跡廻りでは、南風原陸軍病院壕、平和祈念公園、平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館、ひめゆり部隊最後の自決地「荒崎海岸」を歩き、過去の追体験をしました。

南風原陸軍病院壕前で入壕の説明を聞く。
この中で多くの負傷患者が青酸カリで"処置"された。
病院壕に埋められていた医薬品類

 講演されたダグラス・ラミスさんは元海兵隊員で、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)など反戦平和運動に従われた方です。講話では、日本を「重たいランドセルを背負った100人の小学生」に例え、ランドセルが重たいと話合った結果、一人の子どもに75個背負わせ、残りの25個を99人で背負うことにした。75個背負った子が重たいと愚痴ると、「重たいことを知っている君が他の人に同じ思いをさせるのか?」と我慢させる。原発問題と同様に沖縄問題でもマスコミなどに惑わされることなく真実を見抜くことが大切だ、と示唆されました。
 「ピースアクション」は、8月の広島、長崎、9月の根室へと続きます。

「ピースアクションin沖縄」に参加して
     敷島製パン労働組合 大野 剛史
                  渋谷 圭司
"魂魄の塔"前で、平和への思いを折り鶴に込める
敷島製パン労組の大野さんと渋谷さん

 今回のピースアクション参加にあたり、フード連合の方々ならびに参加者の皆様には大変お世話になりありがとうございました。
 出発当日の名古屋の暑さも厳しいものがありましたが、沖縄に降り立った時の湿気と日差しの強さはさすが沖縄と感じさせるものでした。この暑さは66年前と同じなのだろうかと少し感慨にふけりながら、モノレールに揺られて会場に向かいました。

ひめゆり学徒隊の最後の自決の地 荒崎海岸。この先に慰霊碑がある。

 初日は、C・ダグラス・ラミスさんから見た「オキナワ」の話を聞きました。日本にある米軍基地の75%がいまだに沖縄に集中していることの意味や、憲法9条と日米安保のはざまに揺れる日本の現状をよく理解することができました。
 二日目には、平和ガイドの新垣さんに南部戦跡を案内していただきましたが、中でも、南風原陸軍病院壕跡を見学した際には、戦時中の様子が目に浮かぶようで、本当に胸が痛みました。
 この二日間を通して、これほどまで真剣に「平和とは」「戦争とは」と考えたことはありませんでした。最後の訪問地である「魂魄の塔」では、当労組の組合員が平和への思いをたくさん込めて折った千羽鶴をお供えさせていただきました。二度と戦争を起こしてはならないという強い思いと沖縄にとっての本当の平和が訪れることを切に願いながら・・・。
 最後に、3日間という短い間でしたが、沖縄の人々の陽気な明るさ、三線の音色や歌は我々をとても心地良い気持ちにさせてくれました。今後もこの活動を通じて平和について学び、平和の大切さを多くの人に伝えて行くことはとても大切だと思いますので、みなさんも是非参加されることをおすすめします。

以上

平和祈念公園にて