被爆者のメッセージを 次世代へ 次世代へと つなげていってください
  ― ― ピースアクションin広島 2010年8月4〜6日 ―
  ― ― ピースアクションin長崎 2010年8月7〜9日 ― ― 84日)
広島県産業推奨館(原爆ドーム)【広島】
 げんしばくだんがおちると/ひるがよるになって/人はおばけになる
 この詩は、坂本はつみさんが小学校3年生の時に書いた3行詩(出典:『小さな祈り』汐文社)です。声に出して朗読してください。そしてその時のことを想像してください。考えてください。なぜひるがよるになったのか。なぜ人がおばけになったのか。そして、なぜ原子爆弾がおちたのか。
 ― 広島 ウラン型原子爆弾 1945年8月6日午前8時15分
 ― 長崎 プルトニウム型原子爆弾 1945年8月9日午前11時2分

被爆体験を語る池田精子さん【広島】 3人の朗読ボランティアと朗読をする【広島】
 フード連合では、平和を考えるための行動「ピースアクションin広島」、「ピースアクションin長崎」を毎年開催しています。
 「ピースアクションin広島」では、今年は全国から79名が参加、8月4日は、@ビデオ学習「被爆の爪跡」、A広島女子商業学校1年生12歳の時、学徒動員として立ち退き疎開家屋の片付け作業中に被爆した池田精子さんからの実相証言、B朗読ボランティアによる「被爆体験記・原爆詩の朗読」を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館・研修室で行いました。上記の詩は、「原爆詩の朗読」の中で詠まれました。

平和記念公園で解説をする楢原さん【広島】
 その後、連合・原水禁・核禁会議 共同主催による「核兵器廃絶2010平和ヒロシマ大会」に参加し、被爆建物である「広島アンデルセン(旧帝国銀行広島支店)」で平和を考える交流会を行いました。
 翌日8月5日は、ヒロシマピースボランティアの楢原泰一さんの解説で、ピースウォーク「平和記念公園めぐり(午前中)」、「被爆建物めぐり(午後)」を行いました。非情な猛暑の中、参加者は真剣に楢原氏の話に耳を傾け、65年前の追体験をしました。


長崎医科大学の爆風で傾いた正門門柱の前で【長崎】
 「ピースアクションin長崎」では、全国から67名が参加、8月7日は、@国民学校3年生9歳の時に自宅玄関先で被爆した羽田麗子さんから当時の世相と原爆被害の実相証言、A被爆直後の実写フィルム「ナガサキの少年少女たち」によるビデオ学習、B広島と同じく3団体共同主催の「核兵器廃絶2010平和ナガサキ大会」に参加しました。翌日8月8日は、前日に引き続き、羽田さんの解説で被爆建造物・慰霊碑めぐりピースウォークを行いました。
山里小学校で説明をする羽田さん【長崎】
 広島で池田さんは「美しい地球をこのままの姿で子孫に残したい。人のあたたかい心、命の尊さを大切にしてもらいたい。」、長崎で羽田さんは「千里の道も一歩からの例えのように、核を使わせない、戦争をさせないと声をあげて行動すれば、必ず核兵器がなくなる日が来る。毎日を大切に生きて、平和を大切に思ってほしい。」と話されました。
 悲しいことに、残念なことに、被爆者の話を直接聞くことのできなくなる日が必ず訪れます。今、被爆者の話を聞きメッセージを受取った人は、平和への思いをつなげていく使命を持っています。

「座って待っていれば平和になるのではない」
語り部の池田さんの話に非常に感銘を受けた
 近畿コカ・コーラグループユニオン 村山 英昭


動員学徒慰霊塔の前で、近畿コカ・コーラの竹本さんと村山さん【広島】
 我々近畿コカ・コーラグループユニオンからは2名で参加しました。ピースアクションには、昨年の長崎に続き、2度目の参加となります。しかし、今年の夏は暑い!65年前の8月6日の朝もそうだったと思いますが、太陽の光が容赦なく降り注ぐ二日間となりました。
 初日の平和を考える学習会では、フード連合加盟単組の仲間の中には、子供を連れてきている人がたくさんいるなあというのが、まず第一印象でした。司会はフード広島地区協事務局長の廣田さん。まず冒頭の挨拶かと思いきや、いきなり黙とう。さすがはピースアクションと感じました。
「島病院の上空 約600メートル地点で爆発した」楢原さんの説明を真剣に聞く【広島】
 続いて、フード連合本部の渡辺さん(中四国・九州ブロック局長)から、「今回の平和行動を体験いただき、職場にその輪を広げてほしい」との挨拶の後、いよいよ語り部の池田精子さんに当時の話を伺うことになりました。「その日は燃えるように暑い1日で、私は家を壊して防火帯を作る勤労作業中で、ガレキの後片付けをしていた。いきなり閃光があり、10m以上吹き飛ばされ気を失った。
原爆被害には3つの要素(@熱線、A爆風、B放射線)があり、一つ目の熱線は爆心直下で4,000℃に達する。鉄は1,500℃、ガラスは700℃で溶けるので、人間なら骨も灰もなく蒸発する。二つ目の爆風は秒速440mに達する。日本に上陸した最も強い台風で風速85.3m/秒であるから、爆風の影響で眼球や内臓が飛び出した人が多数いた。三つ目の放射能は、人体に影響のない放射線と比べると、原爆の放射線は約15万倍だそうで、血小板を壊滅的に破壊する。また、原爆に関する絵画でよくみる、『幽霊のように両腕を前方に出し、だらんとするスタイル』は、やけどを負った腕を心臓より高い位置にすることにより、あれが一番楽なスタイルなのだ。
被災者の様子を描写した絵画【広島】
私も、初めは死体を見て、『死んでる。可哀そう』と感じたものの、たくさん見ると何も感じなくなった。人間って悲しいなあと感じた」と話されました。また、悲劇はそれだけでは終わりません。一命を取り留めた池田さんでしたが、大やけどを負っていたため、回復後も『赤鬼が来た』などといじめられる青春時代を過ごすことになりました。自らの姿を鏡で見て自殺を考えた時期もあったそうですが、両親の「うちの精子が生きてて良かった。」という言葉を聞き、思いとどまり、その後15回の整形手術をされ現在に至るそうです。
日赤病院に保存されている爆風で歪んだ窓枠やガラスで傷ついた壁【広島】
 また、池田さんは、日本だけでなく海外でも証言活動をされている中、「以前は『真珠湾の仇を討った』と原爆を正当化していたアメリカ人も、『アメリカ人として被爆者に謝りたい』と言われるようになってきた。私たちは行動しなければならない。座って待っていれば平和になるのではない。一人の力が大きな力になるのです。」と話され、私自身非常に感銘を受けました。
 続いて開催された「核兵器廃絶2010ヒロシマ大会」でも、「被爆者からの訴え」として葉佐井氏(広島県被団協会員)から「8月6日は我々にとっては命日なんです。お祭りではないことを念頭に置いて欲しい」との一言や「あの時生きた人・死んだ人は紙一重で連帯感がある。今の平和があるのは彼らのおかげであり、これを後世に伝える必要がある。」との使命感が強烈な印象として残りました。
御幸橋の説明板には被爆3時間後の逃げ惑う人々が刻まれている【広島】
 二日目のピースウォークでは、「平和記念公園内」や「被爆建物」めぐりを行ないました。原爆ドームをはじめとする被爆建物を写真等で見たことがある方は多いと思いますが、ヒロシマピースボランティアである楢原さんの解説をお聞きしながら回ることで、多くの新たな驚きがありました。一つ例を挙げると、アメリカがなぜ敗色濃厚だった日本にわざわざ原爆を投下したのかということです。その理由は3つあり、@つ目は、日本を降伏させるため、Aつ目は、2発の原爆が未使用であれば、原爆開発に生じた巨額の費用の説明ができないため、Bつ目は、第二次世界大戦後の世界の覇権争いにアメリカが勝利するため、だそうです。私はこれらをお聞きして、日本人でありながら、このようなことさえ知らない自分がいることに強い危機感を覚えました。
連合・原水禁・核禁会議「核兵器廃絶2010平和ヒロシマ大会」に参加しました【広島】
 最後になりますが、「ピースアクションin広島」に参加させていただき、過去の歴史を(表面上だけでなく)しっかり学ぶ必要があること、我々が普段空気のように感じている平和が核兵器によりいつ危機にさらされるかもしれないこと、また今の平和があるのは戦没者はもとより、語り部の池田さんのように体を張って平和を訴えている方が多数いらっしゃるお陰であることを知ることができました。私自身も、この体験を家族・友人そして組合員に対し、しっかり伝えていきたいと思います。


私たちはこれから何をしていくべきか、どうあるべきか考える必要がある
 不二製油労働組合 横尾 謙介


山里小学校防空壕前、不二製油労組の三人、中央が横尾さん【長崎】
 今回、フード連合「ピースアクションin長崎」に8月7日〜8日の日程で参加しました。
 私は、小学校と高校の修学旅行で広島、沖縄へ平和学習として訪れたことがあります。特に小学生の時に行った広島の資料館での展示物は、痛そう、辛そう、かわいそう、ひどい、といった見た目のインパクトが強く、幼いながらに原爆はあってはならない物だと強く感じました。沖縄についても、相当な数の爆弾が落とされ、多くの民間人が被害に遭い、戦争は無差別に害するものと思いました。
 この度、初めて長崎へ訪れ、長崎駅を降りた感想として、大きなビルや建物が立ち並び、一方周囲は山に囲まれ、緑も多く雰囲気のいい町だなぁと思いました。まさかこの地が65年前に一発の原子爆弾ですべてを失ったとは思えないくらいでした。
原爆落下中心地で羽田さんの説明を真剣に聞く【長崎】
 ピースアクションの一環として、語り部の羽田さんの引率のもと、長崎市内の様々な場所をめぐりました。最初に行ったのが資料館。原子爆弾がどれだけの被害をもたらしたのか、たくさんの被爆した品や写真、手記など、どれもが胸に突き刺さるほど悲しいものでした。そこから爆心地を回り平和記念公園へと行きました。平和記念公園にある平和祈念像、羽田さんは言っていました。像の作成には多くのお金がかかったこと。しかし、一方で被爆された方に対しての支援はまだほとんどされていなかったこと。平和の象徴として建てられたものですが、その分被爆者の方々のために使われていれば、もっと苦しみから救うことができたのに、と思うと切なくなりました。
山王神社の一本柱鳥居【長崎】
 その後、山里小学校の防空壕跡、浦上天主堂、山王神社と巡りました。原爆の爪痕を残し、今も遺されている物も数多くあり、凄まじさを自分の目で見ることができ、貴重な体験をさせて頂いたと思います。
 長崎に原爆が落とされてからも、世界各地では競って核実験が行われ、これまでに2000回以上行われたそうです。現在は収束に向かっていると言いつつも、まだまだ核は多く存在します。私たちはこれから何をしていくべきか、どうあるべきか考える必要があると思います。大きな事はできないかもしれない、小さなことでも実になるのは難しいかもしれない。でも過去にあった事実を正しく知り、後世に伝えていく事ならできると思う。戦争の悲惨さや、核兵器の愚かさをすべての人が知る事が平和への一歩と思います。
 私は一日でも早く世界から戦争がなくなり、核兵器が根絶される事を強く思います。

平和を考える学習会会場「セントヒル長崎」にて【長崎】 連合・原水禁・核禁会議「核兵器廃絶2010平和ナガサキ大会」に参加しました【長崎】
僕は未来を…【長崎】