怒号罵声呻き声、血膿汗糞尿臭、そして人肉を喰む蛆シラミ
  ― 65年前の沖縄の壕の中、中山きくさんは16歳でした。
  ― ピースアクションin沖縄 2010.6.21〜23 ― 621日)
平和祈念公園中央にある平和の火
 沖縄は、日本で唯一住民を巻き込んだ地上戦があった地です。
 地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたために“鉄の暴風”といわれるほどの戦闘は、日本の敗戦が色濃くなった1945年3月から3ヵ月以上もつづき、24万人余の人命が失われました。
 沖縄は日本軍に「本土決戦の準備が整うまでの時間稼ぎの『捨て石』作戦」として見捨てられ、老幼婦女子まで「根こそぎ動員」され、14歳から19歳の男子学生は「鉄血勤皇隊」として軍の物資の運搬などに、女子学生は「女子学徒隊」として戦場に動員され看護活動にあたりました。

元白梅学徒隊の中山きくさん
 白梅学徒隊の中山きくさんは、野戦病院手術壕に配置されました。6月4日に病院閉鎖解散命令が出た後の逃避行では、激しい空爆と艦砲射撃の中、同期生22人が戦没しました。内、戦死場所が判っているのは数名です。
 6月23日、牛島司令官が自決したことで組織的戦闘は終わりました。しかし、牛島司令官は自決前、生き残ったものに「降伏せず、最後まで戦え」と命じたことで、その後も戦闘状態は続き、犠牲者が増加しました。8月15日の終戦も知らず捕虜を恐れて9月まで壕から壕へ逃げ回っていた人もいました。
 2010年6月23日、沖縄は65回目の「慰霊の日」をむかえました。
 65年経った今でも、米軍基地の75%が集中する沖縄は大きな苦しみを強いられています。

ひめゆりの塔(第三外科壕跡)
 フード連合では、平和を考えるための行動「ピースアクションin沖縄」を毎年開催しています。
 今年は、全国から60名が参加し、@沖縄戦の実相を1フィート運動の映像で伝えるビデオ学習、A元白梅学徒隊の中山きくさんの講話聴講、B平和ガイドの新垣文代さんによる激戦地であった南部戦跡廻りの内容で平和学習を行いました。南部戦跡廻りでは、ひめゆり資料館、野戦病院壕として使用された糸数壕、平和の礎、平和祈念資料館、魂魄の塔、ひめゆり学徒隊自決の地の荒崎海岸を歩き、過去の追体験をしました。

糸数壕(アブチラガマ)入壕前の説明を聞く
 中山きくさんは、戦後50年目に初めて語り部になりました。それは、思い出すこともつらい戦争中の話をしたくはないけれど「後に続く人たちに同じ道を歩ませてはならない」気持ちからでした。「二度と戦争への道を歩まぬよう監視してほしい。平和学習を通じて後々の若い人へ継承していってほしい」と私たちに訴えられました。
 「ピースアクション」は、8月の広島、長崎、9月の根室へと続きます。

「悲しい歴史を繰り返さないためにも次世代に伝える義務がある」
  カネテツデリカフーズ労働組合 山本恭裕


カネテツデリカフーズ労組 山本さん
 この度、僕達の単組からは4名で参加させていただきました。
 出発地の神戸は梅雨の真っただ中でしたが、到着した那覇はとても良い天気で飛行機を降りた瞬間、「暑い〜!」って感じでした。まさに南国のリゾート地です。しかし、この美しい島で65年前に沖縄戦が行われ、県民の当時の人口の1/4にあたる15万人前後が犠牲者になったというのは信じられない話ですが事実なわけです。

中山きくさんの話を聞く
 初日の平和を考える学習会では、語り部の中山きくさん(元白梅学徒)から悲惨な野戦病院での体験をうかがうことができました。当時16歳だった中山さんが看護要員として戦場にかりだされて体験したことを聞かせていただいたわけです。
 お話の内容は悲しいものばかりで、当時の思い出は筆舌しがたいことであったと思います。そのお話しの中で僕が驚いた内容の一つに〔軍隊は住民を助けない〕ということがありました。
 戦時下の中での住民は、軍隊にとってどのような存在だったのでしょうか?普通に生活していた人々の静寂を破り、挙句の果てがお荷物扱いでは亡くなった方々は浮かばれません。本当に残念で悲しいお話でした。

平和の礎の前で説明をする平和ガイドの新垣さん
 二日目は南部戦跡巡りで平和ガイドの新垣さんのご案内のもと、平和祈念公園・ひめゆりの塔・糸数壕・荒崎海岸等に連れて行っていただきました。ひめゆり平和祈念資料館では亡くなった女学生の写真が展示されていました。時代が時代なら亡くなった女学生達も人生を謳歌して幸せに生きていたはずだと思うと本当に無念であったと思います。糸数壕(アブチラガマ)では、この暗いジメジメした壕の中でどんな気持ちで生きていたんだろうと思い、荒崎海岸では空の青さと歴史の重みのギャップを痛感せずにはいられませんでした。

平和の礎ではモモタマナの木がやさしい影をおとしている
 僕達は、時とともに戦争があったことを忘れがちです。戦争の悲惨な歴史を風化させることなく、またこの悲しい歴史を二度と繰り返さないためにも僕達は次世代に伝える義務があると思いました。



ひめゆり学徒隊最後の地である荒崎海岸
 今回、フード連合の活動の中でこのような平和学習会に参加させていただくことができて本当に良かったと思います。これからも多くの方々に参加していただき戦争とは何かを学習していただきたいと思います。
 皆さん、戦争のない平和な国、平和な世界をめざしていきましょう。


平和祈念公園にて
空の青さは65年前と変わらないのだろうか…